歴代主将が語る谷原ヤンキース史
3. トレーニング 『練習という名の劇場で繰り広げられる自作自演の嵐』
練馬区内にはアマチュア野球団が使用できるグランドか結構数多く存在する。住宅地でありながら所々緑の残る石神井公園駅前にも、いくつかのグランドがあった。我々は平日の夜や土日を利用して、皆で合同練習を行う事になった。但しこの練習を行うにあたって、私の心の中にはある一つの疑惑が渦巻いておりました。というのは高校一年でアマチュア野球団を結成したとある人に言うと『好きだねー野球。で、メンツは?中学時代の野球部のメンバーで作ったんでしょ』とか『高校で硬式やってる奴何人いるの』というような、さも当然超野球好きの強者達で構成されているんだろう、と言わんばかりの反応がよく返ってきました。ところが、原田孝氏等は小、中と9年間野球道に邁進してきたように見えたが、生来の多汗症と異性を意識するあまり、『あまり汗をかきたくない』との理由で、当初よりチームの活動にあまり積極的ではなかった。
またよくよく考えると我が谷原ヤンキースには、中学時代に野球部に所属していたメンバーは私、原田孝、河野大介、宮崎裕司の4名、プラス練習中に思いっきり私が投げたボールが、何故か頭部に直撃し、そのショックでグラブを置いて中二で引退してしまった喜多大介氏を加えても合計5名しかいなかった。尚且つ致命的なのは我々の代の谷原中野球部の公式戦全記録は0勝全敗という事で、一度も公式戦で勝った事がないという輝かしい実績を残していた。又3年の夏、この大会で負ければ引退、つまり白球にかけた中学3年間の集大成とも言うべき、最後の公式戦がトーナメント方式で行われていたが、何と我々はまだ一試合もしていないのに、何故か優勝チームが決まってしまったという珍事が発生してしまった。まあ理由、結論を簡単に申し上げると、新しく変わったばかりの顧問の先生が、大会に申し込むのを忘れてしまったのである・・・こうして我々谷原中学校野球部3年生は、ちょっと憤慨しながらも気恥ずかしい感じで、何となく引退したのであった。
少し余談になったが、つまり後々の試合を想定した合同練習を前に私が危惧していた事とは、『あ、何かノリでここまできちゃったけど、俺達ってよくよく考えたら本当は凄く弱いんじゃないの?試合なんか出来るのかしら、練習っつったって何しましょ。てへへ。』という事だった。実際問題どのような練習から始めればよいか。苦悩の挙句、取りあえず基本に帰って小、中学校の野球クラブの時の練習を思い出して適当にやってみようと思い、ランニング、体操、キャッチボール、トスバッティングと順を追って行った。
「早く思いっきり打たせろよ。」どこかでベースの効いた野太い声が聞こえました。大澤宏治氏でしょうか。
「もうキャッチボールはいいよ、ピッチング練習しようよキャプテン。俺超コントロールいいぜ。」そういって勝手にピッチングマウンドに向かう後姿は内田和之氏のようでした。
とにかく練習中はいつもこんな感じで、ある者は報われぬピッチング練習をひたすら繰り返し、「あ、今日はストレートの走りがいいな。」とか、「縦のカーブの落差がすごいな」等、しまいには「俺結構ピッチャーいけるじゃん。俺を使った方がいいんじゃないかな。」と、当時レギュラーメンバーを決定する要職にあった私に、視線を合わす事はありませんが、不必要に大きな声で自分の好調さをアピールします。
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