歴代主将が語る谷原ヤンキース史
「おお、涼しいぜ〜。宏治シャワー入らせてよ!」 数時間後、3人の男達は肩で息をしながら、興奮冷めやらぬ様子のまま、その部屋に戻った。
「おもしろかったな」「ああ、久しぶりだったからだな」「肩イテー!」などという弾んだ声が、さっきまで充満していた煙草の煙に変わって部屋中に満ち溢れた。
「大勢でやったらもっとおもしれーんじゃねーの?」「誰かいるかなー?」「呼ぶか今から?」「まず篠だろ、内田だろ、この二人は固い」それぞれ谷原中でそれなりにブイブイ言わせていた彼らの周りには、自称運動神経が良いと思われる友人がたくさんいた。元野球部、剣道部、サッカー部、バレー部等、現在は高校で皆女の子にもてることだけを考えて生活していたが、よく考えたら結構みんなスポーツ、こと野球に関しては自信のある奴が周りにはたくさんいた。その場で挙がったメンバー候補の名前は、既に両手の指の数を超えていた。
「よし、じゃあいっそのこと草野球チームを作っちゃおう!な!どうせ暇だし。メンバーはすぐそろうよ。そうしよ!」
その時立ち上がって二人にそういったのは私だった。
1990年のそれはそれは暑い、ある夏の日の事であった。
2. 谷原ヤンキースの旗の下に 『集え、若者達!』
前述の3名に加え篠崎孝一、内田和之の2名を加えた元谷原中学校の同級生5人、彼らが実質初代『谷原ヤンキース』及び『2000万パワーズ』それから現在活動している2代目『谷原ヤンキース』に繋がる系譜の、発起人であり立ち上げメンバーである。篠崎氏は中学校時代にサッカー部のオールラウンドプレーヤーとして名を馳せると同時に、熱球的な虎キチ、下ネタキチとして中学校中に名を轟かせていた。内田氏は大澤氏と同じく剣道部に所属する一方で、無類の野球好きのサウスポーとして、またすぐに人から借りたスーパーファミコンのカセットを、中古店に勝手に売却するという荒業師として、学校中の生徒を震撼させていた。
チーム名の決定に関してはスムーズに決まったような記憶がある。最も後に述べる事になる2度の改名の時よりもという意味だ。立ち上げメンバー全員が練馬区立谷原中学校の卒業生だった事もあり『谷原』の冠名を入れ、また今ではもう死語になりつつあるが、いわゆる「ヤンキー」というとちょっと悪そうなイメージと、メジャーリーグのニューヨークヤンキースにかけて、晴れて『谷原ヤンキース』というチーム名になった。
しかしチーム名は決まったものの、正式メンバーはまだ5人。勿論道具もユニフォームもない。まずは中学校の卒業アルバムを引っぱり出し、同級生を中心にメンバー集めを開始した。
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