歴代主将が語る谷原ヤンキース史
『和之ですか、おりますよ。ちょっとお待ち下さい。』という受話器の向こうで身内の方が放った一言で、我々にはだいたい察しがついていた。30秒後、『おお、ワリワリー』という倦怠感に包まれたちょっとラウドな内田氏の声が聞こえた。その声を例えるなら、今まで熟睡していて、この電話で起きたばっかりの、いわゆる寝起きの声のようだった。ていうか内田は寝ていた。本当に。
急いでグラウンドに駆けつけた内田氏に対し、相手チームを待たせてしまっている事もあり、私は怒りに心震わせていたが、まず試合を始める事が先決であるという事で、そのまま理由等を問いつめる事もなく、準備を急いだ。しかしながら私以上に憤怒の表情を浮かべていたのは、相手チーム『フェニックス』を招聘した大澤宏治氏であった。
結果、試合終了後の夜、大沢氏は私に話しがあるという事で、急遽私は彼のマンションに向かった。単純に寝ていて遅刻した内田氏に腹が立つのは当たり前だが、その事実に対しての主将である上原潤の対応にも腹が立つという事だった。つまり今後の事もあり、もっと遅刻等には厳しい態度で臨むべきだというのだ。
ちなみに私は中学三年間で100回位遅刻をした。恐らく立ち上げメンバーの5人は皆それくらいだと思う。よくああ遅刻だなと思って、トボトボ歩いていると逆サイドにも同じような奴がいて、それは時に篠崎孝一氏であり、時に大澤宏治氏であった。
つまり我々は別に異国の南国育ちではないのですが、不思議と時間通りに集まるという感覚が欠落していて、原田孝氏が昔フィリピンパブでフリーダムと呼ばれていた事でも分かる通り、物事に捉われない自由闊達な精神を愛する集団であった。しかしながら団体スポーツであるベースボールに関しては、プレー以外の部分も含んで、この精神は時として災いを引き起こすのだ。
我々にとってのフリーダムは両刃の剣だった。特にこの時の内田氏のように、あまりにフリーダム過ぎて、記念すべき『谷原ヤンキース』対外初試合当日の集合時間を自宅で夢の中で迎えるというのは、今後のチームの活動に一抹の不安を残すものであった。
大澤宏治氏の追及は大変手厳しい物だった。しまいには前述の通り、こんなチーム俺辞めるよ、とその特徴のあるキツネ目を赤く染めながら、私に言い放ったのだ。
当時は当たり前だが、パソコンも携帯電話もない。練習、試合等の連絡は全て自宅への電話になる。今のようにリアルタイムで情報を伝える事ができないので、事前の確認、連絡を密にしなければならない。毎回10人〜15.人のメンバーに連絡を取るのは結構骨の折れる作業であった。副将である大澤氏は私と分担してその作業を行ない、尚且つ今回は彼の知り合いのチームを(確か文京区をホームグラウンドとしていたような記憶がある)招聘するための交渉、段取り、確認、連絡を一人でやっていたので、既に試合前に相当神経をすり減らしていた。
結果的に内田和之氏に対しての厳重注意、その他遅刻やドタキャンに対しての罰則等を設ける事で、事は落着した。ちょっとだけ感情的になっていた大澤氏もチームに残り、ここから1994年まであしかけ5年に渡る初代『谷原ヤンキース』の活動が始まったのである。
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